FALL BACK (demo) by TRÈS OUI

きのう(3月15日)の朝、TwitterのTLにこんなツイートが流れてきた。

・・・って、マジか!こんなの全然知らなかった。というわけで、先日の来日公演の余韻も冷めやらぬLiteratureのNathaniel 、Rose Sélavy(FacebookTwitter) のSteven Garcia、ex-The David RuffinsのJonathan Moraらによるニュー・バンド、TRÈS OUIのデモ楽曲。

name your priceなんで、このテの音源はいつバンド側によってdelateされるかわからないし、とりあえずDLしておきましょう。で、肝心の内容がデモとはいえど、彼らが常々クチにしているOrange JuiceやHit Paradeへの愛情に満ちた一曲。Orange Juiceといえば、こちらも数日前にTwitterに流れてきた(RTしてたのが、同じくLiteratureのKevinによるアナザー・バンドMercury Girlsのアカウントだったっていうのがまたグッとくる)82年のZig Zagのインタビュー記事をここに無断転載。
「Buzzcocks、Subway Sectが僕らのヒーローだった」って一文に拳を握り締めつつ。Orange Juiceの前身バンドNu-Sonicsのリハーサル音源で、彼らはNYドールズの”Mystery Girls”のカバーをプレイしていた、とかっていう注釈がいまはもう必要とされないくらいに、Orange JuiceやJosef K、Felt(初期Feltは最高だ!)とかの初期ネオアコ勢はインディーポップ云々と言う前に、音楽的にパンクの流れにある「ポスト・パンク」としての認知を高めていると思うんだけど、僕がこの辺の音楽に夢中になった20年くらい前、ネオアコ周辺のリスナーの人たちって「パンク」というとすぐその精神性について語りたがる人ばかりで、いや、そりゃあスピリットは極めて大事なことよ?けど、僕が興味あったのはなによりも「音楽的に」、ネオアコのどの部分がパンクからの影響なのかっていうことで。そういうことを教えてくれる人って全然いなかったから。全然。だから自分で音源を探して聴いて、自分のアタマで考えるしかなかったわけで。ネオアコを聴いてるパンクスの知り合いなんて周囲にいなかったしさ。や、別に恨み言みたいなのを述べたいわけじゃなくて、いい時代になったんだなあってこと。だって、Postcard期のOJって本当にファンタスティックで、パンクを好きな人たちが聴いていたとしてもまったく違和感ないもの。
・・・と、うだうだとあまり必要のない前口上を述べるのはこれくらいにして。Literatureについて。おそらく多くの人にとってそうであるように、僕にとってもLiteratureは本当に特別な存在だし、だからこそ言葉にしづらいというか、先日の来日公演についても僕が観に行った最終日の代田FEVERでのライブについてのレポートみたいなものを書こうと思っていたのだけど、いざPCに向かってみると実際にはもう僕なんかがLiteratureについて書くことなんてなんもなかったりするんだよなあ。いや、小ネタならたくさんあるよ?ライブが終わってからKevinに話しかけて、僕がパーカーに着けてたMercury Girlsのバッチを見せたらすごく喜んでくれたとか、会場で個人的に敬愛しているバンドの方とお会いすることが出来てすごく嬉しかった(にも関わらず緊張しちゃってあまり喋れなかった。。こういうときに自分の人見知りな部分をぶん殴りたくて仕方なくなる)とか、そういう類のものなら。まあ、Kevinのギタープレイとかピッキングについては書きたいことが沢山あるんで、それらについては折を見て、とは思っているのだけど。
ただ、あの日のFEVERのフロアでうっすらと感じたこと。以前当ブログが行ったインタビューで、彼らにとって「Arab Spring」というアルバムは彼ら自身の友情のドキュメンタリーである、と語ってくれた。では、Literatureにとって、「Chorus」というアルバムの位置付けとは?彼らにとってあのアルバムは、「Arab Spring」という芳醇な季節、言い換えれば「思春期」のあとで、彼ら自身の関係性を密なるものとしたうえで、音楽への強い信頼と確信を武器に世界と対峙した「青年期」そのものではなかったか。アルバムタイトルの”Chorus=合唱”とは、声を合わせて世界に立ち向かおう!という、彼らからのリスナーへのアジテーションだったと僕は解釈している。「Chorus」のリリース時によく見られたLiteratureとThe Smithsとの比較論も、イギリスのポップミュージック固有のロマンティシズムと憂いとを併せ持った音楽が、アメリカのテキサス出身(現在はフィラデルフィア在住)のバンドによって奏でられているということへの驚きから、というのもさることながら、むしろLiteratureのバンドとしてのスタンスにリスナーがThe Smithsの影を見ていたから、とすべきものではないのかと。NYドールズのファンクラブ会長を務め、NosebleedsやSlaughter and the Dogsなどのパンクバンドに在籍しながらもオスカー・ワイルドに耽溺していた青年モリッシーが、60’sのポップミュージックへの情熱と音楽的素養とを兼ね備えたジョニーマーと「共謀」して駆け出したThe Smithsの蒼さに近しい資質を持つバンド、として人々がLiteratureを認識していたことに端を発する論説だとするのは決して間違いではないんじゃないか。だって、LiteratureとThe Smithsって音楽的には似てないし。そして、The Smithsに限ったことではなくリスナーと誠実に向き合ったロック・バンドの多くが、そのストーリーを巨大化させていく過程で担っていくことになったロック・バンドのあり方、すなわち「観客とともに時代を生きていく」(Join Together With The Band!)、をいまのLiteratureは無自覚とはいえ体現しているのではないか。だから、あの日の会場は多幸感に満ち溢れていたのではないか。・・・とすると、近い将来Literatureは、多くの野心に満ちたロック(ポップ)・バンドが辿ったのと同様に瓦解へとその歩みを進めていくことになるのだろうか?このTRÈS OUIやMercury Girlsというバンド外活動というのは、彼らにとって破綻へと向かう序曲なのか?・・・なんて、なにを縁起でもないこと書いてんだ。
まあ、前文で「音楽的に」とかなんとか書いておきながら、僕の好きなロック的なイディオムのなかで物語の話をするという自家撞着に陥る僕のような人間は、すでにLiteratureのことを語る資格を喪失していると思うんだよなあ・・・って、なんだこのエントリーw
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