ポップ作家と妖精某(Theムッシュビ♂ト カバー)by山岡迷子

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先日、Positive Records主宰、BaaBooFAZのキーボーディストとしても活動するTheムッシュビ♂ト氏と僕とで会合を行った・・・というか、実際に顔を合わせてお酒を呑みに行って話した、というそれだけのことなのだけど、それが僕らにとっては本当に重要なことで。Twitterやメールまたは電話やSkype、LINEとかでやりとりするのではなく、直接会って話すっていう非常にシンプルで効率的なコミュニケーションの在り方だったからこそ、いちレーベルオーナー/アーティストと、いちブロガーという立場の違いを超えて、お互いの現状認識や考え方の合意点/相違点をしっかりと確認し合うという、非常に有意義な時間を過ごすことが出来た。(もちろん、そこには時間や距離や金銭などさまざまな問題があって、それらをなんとかクリアして実現したことだったんだけどね)その際に、インディーとはなにか?という、ここのところ自分がわりと青臭く考えていたことについて、00年代前半の関西アンダーグラウンドで過剰なまでの表現欲求に駆られたアーティスト(その表現形態の突拍子のなさ故に「音楽家」と呼べるか呼べないかがギリギリなひとたちも含む)に数多く触れたこと、または自身の音楽をリスナーへと届けるうえでのさまざまな障壁を易々と越えることができたという、ネットレーベル勃興期に受けた恩恵を基にしてその「インディー」観を培った氏とああでもないこうでもないと意見交換を行えたことは、個人的にはとても重要な出来事であった。「インディー」とはなにか。そもそも、「インディー」とは”independent(独立した、独自性のある)”を語源とするわけで、僕にとってはそれは70年代のパンクの姿そのもの。アーティスト、レーベルがメジャーの資本、流通網に頼らず自分たちでレコーディングスタジオを抑えて、当時のハードロックやプログレッシブ・ロック(僕はこういった音楽も大好きなんだけど)にある冗長さやテクニック至上主義的な音楽性を一切排除したロックンロールを熱意を込めて盤に詰め込んで、ローバジェットながらもハンドメイドの7インチを何百枚か、自分たちの手でレコード屋に卸して。自分たちがカッコいいと思う服装を身にまとい、ライブハウスでその後30年と語り継がれるパフォーマンスを繰り広げて。その熱を浴びたリスナーのうち、文章を書ける連中がファンジンを作って。そうじゃない奴は口コミで、他の奴に「パンク」の凄みを伝えて入って・・・。そういった熱意に溢れた姿勢こそが「インディー」だと僕は信じているのだけれども。もちろん、価値とか考え方なんて人の数だけあって然るべきだし、各人が「インディー」って言葉に見る夢だとか理想が違うなんてことは当たり前だとしても。音楽の様式とかそんな糞みたいに瑣末なことよりも、根底にそういったDIYなアティチュードがない人が掲げる「インディー」には、少なくとも僕は薄ら寒さを感じるしアジャストしていこうとは一切思わない。・・・で。Theムッシュビ♂ト氏と延々その話題について議論したなかで、真にindependentな「インディー」を体現している存在こそが迷われレコード(WebTwitter)であり山岡迷子(SoundcloudTwitter)氏だ、というコンセンサスに両者が達したあと、ほろ酔い(というか泥酔)で帰宅の途に着いたほぼ同刻に、山岡迷子氏がSoundcloudにひっそりとアップしたのがTheムッシュビ♂トの「ポップ作家と妖精某」のカバーで、そのタイミングは偶然・・・にしても、ちょっと出来すぎてるなと。僕らのアレコレをすべて見透かされた気がしてぞっとするものがあったし、このカバーについてはちょっと書いてみたいなと思ったんだ。

迷われレコードに関して書くべき(だと僕が勝手に思っている)こと、書きたいことはたくさんあるのだけれども、数日前に「ネットレーベル云々」っていうのがTwitter上で話題になったこともあって、いま僕がなにを書いたとしてもその辺の話と関連性づけられるだろうし、それは僕にとっては正直不本意なことなのでここでは省略する。で、このカバーについて。昨年の夏に山岡氏のユニット”ほむらんず”によるネットラジオ「ほむらんずのたのしいおしゃべり」にTheムッシュビ♂トがゲスト出演した際、氏がkangaloo girls(Alex Chilton/Big Starの”Kangaroo”と”September Gurls”からその名をとったもの?)名義で発表した楽曲”アイドルの歌”のカバー音源を番組限定で公開したことがあり、それに対しての1年越しのアンサーとなるこのカバーの意図を深読みすると。スープーメッセンジャーの”パンク作家と妖精サシ”のタイトルを改題したTheムッシュビ♂トの”ポップ作家と妖精某”(ストリーミングはこちら)という楽曲の歌詞は、自身の生活を切り売りするかのように作品を書き続ける「私小説作家」が、そのスタイルに疑問や苦悩を抱えながらも自身を鼓舞してその「作家業」をまっとうせんとする日々のなかで、おそらくは彼(または、この主人公が実は”彼女”であるという可能性も捨てがたいのだけれど)が書いた作品、台本を元に演じられる歌劇の舞台の上のひとりの女性=妖精某(注・その「彼女」が「妖精某」であることは最後までリスナーには明かされない)が光り輝くさまをみて心動かされ、自身の作家性とステージ上の華やかさとの折り合いがつかなくなっていく・・・という物語が語られるものであり、そんな楽曲をこれまで「私小説作家」然とした作風をリスナーに示してきたTheムッシュビ♂トが歌うという、いわば「メタ」的な構造の作品なのだが、山岡氏のこのカバーはTheムッシュビ♂トという「私小説作家」に”ポップ作家と妖精某”という作品を発表する場所を与えたレーベルオーナーが「妖精某」に成りきってみせることで、「私小説作家」へのラブコールを送るという原曲の構造的転換を目的としたものであるはずなのだ。氏がこのカバーで「妖精某」たらんとしていることは、なによりもその朗らかな歌声から痛いほどに伝わってくるではないか。音楽的には、氏がkangaloo girls名義でリリースしたEP「嘘つき」の、現行のUSインディー、Elvis DepressedlyとかInfinity Crushあたりが放つlo-fiな空気感を目一杯吸い込んだかのようなフォークっぷりではなく、レイドバックしたかのようなアコースティック・ギターの響きとローズ・ピアノの音色をその中枢に据えた70年代初頭のアシッド・フォーク的な音処理で楽曲を再構築していることは非常に印象的なのだが。Theムッシュビ♂トの原曲において、クライマックスでは過度に華やかさを演出するストリングとは対照的に、「私小説作家」が自身の内面で起こる葛藤を「僕は感情をイコライジングする」という歌詞に呼応するようにして平坦であり続けるメロディーライン・・・が醸し出すある種の不穏さを、氏はこのカバーにおいてはピッチが不安定なテルミン?の音色で再現しようとしているかのようだ。

・・・と、ここまで書いてきてアレなんだが、これらはすべて僕の好きな深読み、もしくは妄想の類にすぎない。ただ、レーベルオーナーが自身のレーベルから出した他人の楽曲をカバーするって、本当に愛のあることじゃないか。そもそも山岡氏は、この楽曲の未完成のデモがTheムッシュビ♂トから送られてきたときから、この曲をずーっと聴き続けてきたらしくて。このカバーにはそういった「想い」が込められているものなのだ、として無理やりこのエントリーをまとめてしまえ。

カテゴリー: acid folk, folk, independent パーマリンク

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